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パラオ共和国の歴史


パラオ共和国の歴史について

[パラオ共和国の歴史について]

パラオについて

パラオマップ

我が国から3000キロも南にあるパラオ共和国は歴史的にも深い関係にあります。第一次大戦のときそれまでドイツ領であった南洋群島を日本が開放(大正3年1914年)しました。
その後、第二次大戦終了(昭和20年1945年)までの31年間、日本の委任統治領とされて自治が認められました。
パラオは独立国家として大統領制をとり、国名もパラオ共和国としました。特に国旗のデザインは、島民多数の応募の中から「日の丸」に似た「月の丸」が選ばれ、日本語や日本の文化・風俗が色濃く残っています。
特に日本統治下で強烈な遺産をとどめたのは大戦末期のペリリュー戦(守備隊長・中川州男大佐10000人)とアンガウル戦(守備隊長・後藤丑男少佐1800人)でした。
両島とも守備隊長は島民を避難させ、日本軍だけで米軍と戦い、最後は全員が戦死(玉砕)しました。
この壮絶な戦いを米軍もたたえていますがパラオの人々も敬意を持って受け止めています。両島とも破壊され尽くしたにもかかわらず青年神職によって再建された神社を祭り、たくさんの慰霊碑を清掃し、供養を続けています。
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このような歴史的背景があるためか、日本人も多く、前の大統領も日系人のナカムラ・クニオ氏です。そのナカムラ大統領時代の1994年(平成6年)10月1日、国際的に認められ国連にも参加し、独立しました。現在パラオ共和国の最大の収入源は、さしあたって南太平洋の珊瑚礁に恵まれた自然を生かしたマリンスポーツによる観光収入です。


オレンジビーチのいわれ(ペリリュー島・西海岸)

パラオ共和国の歴史画像4

第二次世界大戦の末期、日米両軍によって昭和十九年十一月二十四日をもって、ペリリュー島は、玉砕しました。ところが、中川隊長の最期や命令を知るすべもなかった西海岸守備隊は、米軍から武器弾薬は、もとより食糧衣類を奪い、神出鬼没のゲリア戦を続けていました。 山口永小慰以下、陸海軍の生き残り兵三十四名。それも敗戦後の昭和二十二年四月二十二まで、彼らはおよそ二年半にわたって戦闘を実行したのでした。この生き残り兵は、最初米軍が、西海岸に、上陸した時、最も果敢に戦った勇者達でした。 米軍は、占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。それは、「アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海面が、オレンジ色に染ったからだ・・」といいます。現在「オレンジ・ビーチ」はぺリリュー島の正式名になっています。


ジャングルに眠る遺骨

パラオ共和国の歴史画像5

パラオは終戦までの三十一年間、日本の委任統治領だった。太平洋戦争が勃発し南太平洋島民を避難、投降させた後、島を死守しようとした日本兵の壮絶な戦いは今もパラオでは語り継がれています。 洞窟陣地は日本兵の遺体とともに、米軍のブルドーザーで埋められた。その一カ所が昨年、慰霊に訪れた旧米兵の証言で判明。神職の有志が手堀りで十八柱の遺骨を収集している。 その洞窟内に足を踏み入れると、軍靴、短刀パイナップルの形の手榴弾が散乱していて、その奥を進むと出口がある。出口はジャングル、その先にも埋もれたままの洞窟が続いていると言う。 日本を遠く離れたジャングルの中で見えたのは二十世紀中に「戦後処理」を終えられなかった敗戦後国日本の姿でした。 二十一世紀を迎えた日本国ですが、今もまだ眠ったままの日本兵の遺骨があると伝えられます。



パラオ共和国の国旗は日の丸のデザイン(死を賭した日本軍への敬愛)

二十一世紀を迎えた日本国ですが、今もまだ眠ったままの日本兵の遺骨があると伝えられます。この諸島が、昭和五十五年(1980年)に独立することを国民投票で決め、翌年1月初代大統領の就任式が実施された。 このパラオ諸島は1543年スペインが発見し、その後1899年にドイツが買収。1919年日本の委任統治となり、日本が敗戦して1947年アメリカの信託統治下に置かれてきました。 ところが、その四百年間のうち、約三十年間に過ぎない日本統治時代が一番良かったと、現地人たちは回顧しています。 それは、現地人に実施した日本流の教育成果と、在留邦人が現地人を大切にしたことにもよりますが、それよりも強い印象を彼らに与えたことがあるからです。 それはぺリリュ―島やアンガウル島を守るために、群がり来る米軍を相手に玉砕するまで戦った、その勇猛果敢な戦闘ぶりへの敬愛の念があるからです。 その激戦のために、両島とも文字通り焦土と化し、彼らの建物も緑も生活も破壊されてしまったにもかかわらず、死を賭した日本軍への尊敬の気持は、今も去らないのです。 ペリリュ-島には、昭和九年に「南興神社」が建立されていまいた。現地の人達は昭和十九年の玉砕戦で、神社が破壊されるまで同神社を
ペリリュ-神社」と呼称して、島の安泰と繁栄を祈願して来ました。

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そして戦後「ペリリュー神社」を再建し、戦死者一万名もあわせ合祀せよと要望してきたのは、同島尊長イサオ・シゲオ氏の母で(日本名)沖山豊美という老女でした。 現在神社は再建されました。現地の人達の親日感情はこのように強いのです。 その一例として紹介するのが、パラオ共和国の国旗です。自立にあたって、国旗を定めなければなりません。 パラオ全島から募集した所、秀作が七十点ほど集まりその中で選んだのが日本の日の丸と同じデザインなのです。 ただし、日の丸の部分が、黄色、白地の部分が青。彼らはこのデザインに、どのような意味を見出だしているのでしょう。



パラオ国旗の意味

パラオ共和国の歴史画像7

「私達は国旗の選択に相当苦労した。 大募者は悉く各島の人々であり、それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。 だから、選考委員会は真剣であった。選考に日数をかけた。 でも、最終的にこの旗にきまったのは、日本の旗に一番似ているので、最大の人気が集まった 日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現す。周囲の青地は海を意味する。 月は太陽が出ないと輝くことができない。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。太陽とは日本のことである。 海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。 我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。 一万に及ぶ英霊たちは私達に、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである」

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